<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="65001"%> 知られざる日本人「五井野正博士」という人について



 

五井野正博士のあの動画をもう一度考えてみたい

地球の物質時間が一度行き詰まり止ってしまった

☆再度、時間を復活させたとは?☆



ゴミという物質が一方向にだけに突き進み続け蓄積され続けるといずれなんらかの形で一方向だけに進み続けた側の時間空間は反対側とのバランス修復のため一方向だけに進み続けた暮らしというものはパンクさせてしまう。

これを日本の学者や大企業や海外の知識人というすべての集団が突き進み続けていて公害が蔓延していた時代が昭和40年代末期!

日本はゴミを捨てる・・そして海に島に埋め立てる・・を続けていた。それに対する疑問を持たないまま突き進み続けていたのは筆者も自分の手で空き缶を車の窓から捨ててしまった心が痛い体験の記憶が残っていたりする。

空き缶はあたり一面に散乱し歩いていて空き缶を踏むなんてことは、日常茶飯事で子供の頃の筆者は空き缶を踏んだときに靴に挟まってしまっては挟んだ状態のままからんからん音を立てながら学校へ通ったりという遊びもしたことがある。

それくらい空き缶とゴミだらけだった。これは意識がそこに着目していない。それが将来自分たちがどういうことになり身動きとれなくなるのか?そういう無関心な日本人がそこにあった。

今はあの当時の分岐点で何が起こったのか?という恩恵を無視し忘れ、日本人は優秀だから大学がが学者が官僚が日本人が優秀だからきれい好きなのだと言っているが当時の日本はそうではなく、日本人はきれい好きだからということが言えない状況だった。この意識の変革を日本は誰かによって変えてこられたと冷静にあの時代の価値観の変化の原因の発端となった事件を再発見し因果関係を考察してみる必要があると思う。


お金儲けというか物を欲しがり生活を満たすことばかりに行く方向にばかりこころを奪われていたのだ。力道山も野球も消費社会もユダヤ支配の下に計画されたといううわさも聞くが日本人がそれだけ調子よく浮かれていたというか?今よりも目標に無我夢中で苦しいながらも貧乏ながらもたのしい人生だったと思う。



お家にしても観光地にしてもお店にしても・・ゴミが捨て続けられるとその先には限られた制限時間が発生してしまい・・やがて生命活動に与えられた時間はジ・エンドになってしまう。実に不思議だ。

こういうことは今は当たり前だとだれもが知ることだがある意味もう一度見直してみると実に生命というのは不思議に高度な生命体なのだということ、宇宙とこころがきちんと一体化してつながっていることそういうことを感じずにはおれない。

自ら捨てたゴミにより地球人の時間が制限されているというまぎれもない法則の中に筆者たちの生命は存在させられ生かされているのだ。そう思うととても大いなる美しい法則の元に生かされていることに・・今、健康でいられることや生活を健全にできることに実に感謝したい気にさせられる時があるものだ。

その不思議な法則を更に糸を手繰ってゆけば・・この世は正義がいやこの法則による下に存在しているため・・この法則側にいる人が最後には勝つことに最初から決まっていることに私は気づかずにはおれない。

そのように私の感覚は生命のそのような命の支配され方からその下に存続していて、更にその存続についてのさらに支配の先をもっと究明したくなるのだ。

これが私が幼いころから興味があったことである。


ゴミの氾濫によって、生命の共同生活する社会の中では、解決に向かうどころかますます解決には向かわず更に思考がぐちゃぐちゃになって時間がだんだん少なくなっていきしばられてくる様子をなんだか滑稽に思うがその滑稽さが社会であり、その渦中でその滑稽さを誘導しているのがマスコミであるし宗教団体であることが今までの事例には見られる。

これは国の借金が増えてゆくだけで・・解決にまったく向かわない状況に固定しきって転がり続けたり、汚れ散らかった会社や人の部屋の人に与える作業能力や作業効率に与える影響にも似ている。



今、私たちが生きていられるのは時間がこのようなゴミが解決に向くように誰かにより仕向け、再び時間が地球に与えられ時間が存在しはじめたのである。これはもちろんリサイクルというゴミ問題の解決により物質が再生処理されたりしながら人間の暮らしも壁にぶち当たることなく終焉せずに時間が与え続けられたのである。

渦中の中にあって渦中にある人間というのは同じ因果を持っているため同じ渦中の人間にはなんら解決策が生まれないのである。

たとえば日本の借金返済も官僚や政治家や学者やマスコミや同じ社会のシステム内で育ってきた人には渦中の中の因果を持つため解決ができないのは当たり前のことなのである。

これと同じように昭和40年代からのゴミ問題も渦中の人間であったり、因果がおなじ経歴に生きた人は渦中の罪人に相当する因果と同一のため解決は一切できないのである。

だから因果を別にする神かそれ以上の存在が慈悲であるいは救済しなければならないある女性のためを最低限のラインとしてでも目的に定めて死の因果しかない人物まで一旦救われながらその目的とした人物を救い出せば・・ついでにその間に全身全霊でチャンスを全日本人に与えながらという機会を報道と出版と講演と一緒に活動を・・・通しての反省のチャンス、因果を悪因果を切れさせるための生まれ変わりのチャンスを与えながらである。

それを私は見てきた。

日本人自身ではゴミの解決には動けなかった。それはゴミに相当する命、国の借金に相当する命が解決には向かわしめないのである。

また解決に程遠い人物を自分たちで選び自民党や公明党や創価学会などをわざわざ援助しマスコミをあげて賞賛し有名人を使って解決と反対の行動を国民全部で動き続けるのが不思議なくらいである。

五井野青年はこの時間をただ単にゴミを再生処理させて循環させて時間を限界を阻止させ時間を作り出すだけの目的ではなかったとみるのが当然のことである。五井野青年はこの与えられた時間を何に使おうと考えてやってきたのだろうか。そこを日本人は地球人は考えておく必要があったのだと見るが。

私の見解では、これまでの功績を侮辱し続けた自民党、官僚、マスコミそして最大攻撃をし続けた創価学会、池田大作、創価学会員。そしてそれに追従した日本人そういう姿が私には行動でなく先ほど申し上げた命の連鎖、命の共同作業で日本人すべてが創価や自民党に作業を委託した無関心ぶりをきちんと30数年あらわしてきて苦しめ続けたひとつひとつの事件について思ってしまう。

この事件というのは、今から反省すれば解消されることではなく、お釈迦さまも五逆罪など証明しているとおり、したことはすべてもう終わったことなのである。結論であることは間違いないのである。


あとは結論を待っている時間ということともに今存在しているのは・・・ということでわかる人はわかり見て残りの時間を消化して行くことになるのだろうか。再度復活させてゆくことができるのだろうか?と見ている間と思う。


話は動画の解説に戻るが・・
五井野青年が自分の楽しみは何もできる時間がないままに青春を捨てて一心不乱に何年もかけて戦い続けてきてくれた記憶が私にはある。

そのことで時間が循環しだした。死の直前あるいは死んで当然あるいは1977年にすでに一度滅んでいた可能性があるという説・・これを蘇った時間内に地球人に日本人に・・これらの死が博士の旅立ちの後には、再び全地球人にかかるのだ。

そのためにこれらの死の定めの因果を断ち切るための時間があったのであり、金儲けだの資産の保全だの、名誉の欲求、恋愛の欲求など・・している場合か?している場合か!全生命体に判断を生命の判断を精一杯の説得で持って訴え続けたが・・・ほとんどの地球人には通じずにみな創価学会に迎合したような?委託したような無視という行動を生命の働きをいつづけあらわした結果として結果が現在残っただけだ。

この30数年間という間、最善な方法、生きる道をなぜ説いてこられたのだろうか?
自分の命のプログラム(因)にゴミ問題から解決され存続される命の因が自分達(TV、社会システム、国家官僚が植民地として支配される身)にはあった?となぜ判断できマスコミに自民党=創価学会に迎合し生きていこうと普通に生活をしようとするのであろうか?と私の場合は自分の因にはゴミ問題から奇跡的に救われた自分の身について相応か不相応か?を考えて現象を図ることが時にある

これが普通の日本人の感覚なのであるが、なぜ因を常に図りながら生きていないのだろうか?日本人の教養のなさ、明治以降むちゃくちゃにされた意識の認識投影力のなさ、そういう姿を感じてしまう。

死と生との両方を見てチェックして再び死なないように生き返った時間に更に最善の生き方を示してくれていたのが五井野博士の書籍である。これを世間に広めさせないようにしたのが創価学会であり出版社乗っ取り事件でもある。

この出版社乗っ取り事件は国民地球人すべての被害であり地球人が救われるかどうかを左右する一大事件であり地球人すべてに関係があることなのだと私は地球人の損得の勘定からそう思うので申し上げたいのである。

この動画のころ発売された
七次元よりの使者のレコードの歌詞の中で・・

この地を去るとき・・・・・・・・・・・・すべてが・・・・●●●・・・と

すべてが・・・・地球人の個人個人の命の因に法って(のっとって)
そのままを正しくきれいに実際に真実のまま・・どう表すことになるか?

それは別にその時にならずとも・・
今現在、この文章を読んだ時点できれいさっぱりわかるのが
普通に機能している
普通の人間としての命である

なぜ
そのように普通の命になるように
改善の生き方をしないのか?

それが本当の教育であり
本当の教養であり
それがたとえ
金星人に遭遇しようとも
同じ価値観で
共通言語で

通じ合える

教養と言語と信頼感なのである

これを学ぶにはまず

学校教育を前否定しなければ
私の場合は頭が不器用なのでできなかった。

私は私以上に因果の法則を研究し考証し続けている
少年はあまり見たことが聞いたことがないけど・・

そうでない人であれば
そうとう急いで博士を追いかけ学ぶしか
学ぶしか残された時間はもうわずかしかない

これだけは確かだ。

今から学んでどこまでいけるかは
私はまったくもってわからない。

私は博士からの教えを学ぶ身であるだけだ。

☆宇宙のどこの星に行ってもすぐに打ち解けることができる★
それが本当の教育であり
本当の教養であり
それがたとえ
金星人に遭遇しようとも
同じ価値観で
共通言語で

通じ合える

それが一念三千論であるのだが
それは今の段階では難しいと筆者は感じたので

単純に原因と結果からまず詳細を突き詰めることから・・


そういうことで学校教育の自らが埋没して自らを失ってしまった心と命の人たちを
対象にしているのか?わからないけれど・・・

今、五井野博士の講演会では右脳の回復、開発方法を伝授させる
講演がなされているようです。私の知人も
右脳がずいぶん開けているようです。
(ただしこの方は才能がありました。学校では白紙でした。
ですのでスピードでは東大出身者よりけた外れに成長が早いと見ています)


日本の学校教育とはイエスの時代にもあったと残されているアトランティスの
記憶を持ち二度と宇宙的な右脳意識を発育させないように教育システムを
日本に落とさせた明治以降持ち込まれ福沢諭吉などを象徴に落とされた
治療カリキュラムのことです。(義務教育など)

(因果が完全に切断されているため如何なる他の星に行っても通じ合えないので
地球以外は絶対にでれないことに完全に決定し確定すると私は実感し
把握し完全に地球の教育が宇宙と人間という生命と
完全に断絶されるカリキュラムであります


福沢諭吉が一万円札なのは、その実相現象。

このような・・被害に遭遇し続けた方にでも
このようは状況の世の中で・・も・・・

博士の講演では・・・・すべてを忘れさせ
喜びを最高に味あわせてくれます。



毎回講演では、喜びと感動と幸せの報告が怒涛の如く
寄せられていると聞いています。



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